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minami

彼女がバーで飲んでいるのは


囚人の足かせをひきずって歩くような1日。頭からつま先まで自己嫌悪でみっちみち。

自己嫌悪は磁石だから、最近うまくいっていないことをすべて吸い寄せて「全部自分がわるいのだ」という大きな岩になる。

そんななかでも救いはあった。


ゴーヤをたっぷり収穫して、3本知人に送り、残りの半分を太陽の下で干して、あとの半分を切って冷凍保存する。


両親が毎週市民プールに行ったり習い事に通ったりして、その直後にワクチンが完了していない妹を家に招いて食事をしていた。また神経質なやつと思われるだろうから言わなかったけど、それって妹のことを本当に大事にしてると言えるのか、と感じた。

本当に家族のことを思うんだったら2回目のワクチンのあとしばらく経ってから会うとか、食事はしないでおくとか、会う前2週間は習い事を休むとか、そういうこともできるだろうになぜしないのか疑問だった。


でもきっと彼らは病気を甘く見ているわけでも、家族を大切に思っていないわけでもなかったのだ。もっともっと複雑で、割り切れているわけでもなくて、迷っていて、毎日恐怖とストレスを感じながら過ごしている。そのことをわかっていなかったなと反省する。思いと行動は連動しない。言葉で割り切れる行動理由のほうが世の中にはずっと少ないのかもしれない。


人間は複雑だと言いたくて文章を書いているし、そういう映画を作りたいといつも思っているのに、どうしてすぐ断罪してしまったんだろう。これこそ、私が嘆く、世界の分断の正体そのものだ。私の中にある。


意見が違う他者と出会った時、きっとこういう事情があるんだろうな、と想像するのがいいことだと思っていた。でも他者の事情を勝手に頭の中で作り上げるよりは、ブラックボックスとしてそのまま、複雑なまま尊重するほうがもっといいということもある。理解しようとすることも身勝手だ。

複雑さ、迷い、をなめていたかもしれない。

複雑さも迷いも恐怖ももっと巨大なものだ。

私がはっきりわかっていると思い込んでいるものだって、ただの勘違いの可能性が高い。

迷った末に出した答えを大事に抱きしめているうちに、その裏側には灰色の苔が生え出す。

安住の地はない。迷いと弱さだけがある。


ずっと会っていない大切な友人と連絡をとる。「会いたいけど、コロナ落ち着かないと無理かな?」と聞かれる。価値観の違いが表出しないように、とっさに、コロナを不安に思っているという理由ではない理由で断る。22時すぎ、彼女は「いまもバーで飲んでるよ」と言う。

昨日までだったら、大胆な行動だ、と壁を感じていたかもしれない。

でも今は、そういうことじゃあないんだよ、と思う。彼女がバーで飲んでいるのは、病気が怖くないからではなく、ふっきれているからでもなく、経済をまわしたいからでもなければ、そこにバーがあったから、でもなく、もはや、酒が好きだから、でもないかもしれない。とりあえず私が想像できる理由は全て間違っている(合っていたとして、間違っている。)彼女という巨大な複雑、それは誰にも解き明かせない。もう壁は感じなかった。大好きな友だちであることを確認した。


複雑、という神様を信仰したい気分。

頭のうしろのにぶい痛みを無視できなくなってきた。寝る。

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